2012年3月1日木曜日

4.その名は仁義ストーム


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あれから15年。
ドッター職を経て、ゲーム企画職となっていた私はアルカナハートという対戦アクションの製作をおこなっていた。
今ではそれなりの知名度があるタイトルだが、開発中はかなり肩身の狭い状態だった。
というのも、製作途中で投資元の会社が倒産、完成まで開発資金が続かない状況になっていたのだ。
しかも営業担当からは売れる商品だと思われていなかったので開発中断は時間の問題だった。

そんな状況の中、資金作りの為、急遽立ち上がった仕事があった。
それは、ほぼ完成まで仕上がって発売中止となったソフトに手を加え、短期間、低予算でゲームを一本作るというもの。
実はこの企画、半年ほど担当者がいないまま放置されていたのだが、状況が状況なだけに、私は仕方なくこの仕事を引き受けることにした。

しかし、考えてみればなんのしがらみもなく、好き勝手に自由にゲームをつくっていいなんて事はそうそうあるものじゃない。

スタッフと一緒に考えを巡らせた。
ゲームの根幹は出来上がっている。ゲーム性を深く作り替える余裕はない。
出来ることといえばキャラの乗せ変えくらいか。

それほど多くを売る必要もない。が、まったく売れなくては本末転倒。ならば一定層にだけ強力に支持される方向性が良さそうだ。

いくつかのアイデアの中から「世界中の悪役が闘う」という、一般受けはしないが、一定の人気が取れそうなわかりやすいコンセプトでイメージが固まった。

グラフィックは同年代の格闘ゲームには到底及ばない、ならば別の方法で人目を引くしかない。
いつの時代にも普遍の要素といえば、やはり色気だろう。
そうだ、色気のあるイラストをステージ毎のご褒美イベントとして表示すれば、モチベーションも上がるんじゃないだろうか。

待てよ、だが、この重要な部分のイラストを描いている期間がない。
ならばオムニバス形式で複数のイラストレーターに依頼してはどうか。

しかし、脱衣要素のあるゲームで対戦プレイが成立するのだろうか?対戦にならなければ、インカムも伸びない。
それならば、対戦時しか出ないグラフィックがあればいい、しかも、より短時間で、より多く倒す方がより過激なイラストを見れるようにしてみよう。ならば、対戦の結果をゲージ量で見せて脱衣のレベルをわかりやすくしよう。

数多くの問題点をアイデアでカバーしながら開発は進行していった。

2006年、短い期間と少ない予算という逆境の中、わずか3ヶ月で製作されたこのゲームは発表された。
その名は「仁義ストーム」

開発の間、私は睡眠時間を極限まで削り作業に没頭した。
このゲームには魂を込めるだけの理由があったから。

主人公の名字は山ちゃんから拝借した。
志半ばで不慮の事故で未来を奪われた彼。
しかしきっと目指したものがあったはず。

名前は「荒ぶる志し」と書いて荒志(あらし)と名付けた。他のキャラクターもあの頃、一緒に遊んだ友人たちの名前をもじってつけた。

仕事として商品を作る以上、クライアントの意向を最大限取り入れる必要がある。しかし、ゲームは商品であると同時に作品でもあると思う。魂を入れられる場所がなければ、自分がゲームを作る理由もない。

このタイトルはユーザー人気としては失敗だろう。商業的には次のタイトルに繋いだと言う意味では成功と言えなくもない。しかし、もう一つの意味で私にとってはかけがえのないタイトルになった。

久々の帰郷で私は友人たちと山ちゃんに報告した。
「激ファイト、完成したよ」と。


~おわり~

2012年2月28日火曜日

3.僕はスーファミが欲しかったわけじゃない。

9月20日。
スーパーファミコンの発売を目前に迎えたその日も僕は普段と変わらず登校した。
廊下でふと、真っ赤な顔をしている友人が目に入る。
いつもはあまり表情をかえない友人が、なにかをこらえるように押し黙っている。
僕はいつもと変わらず声をかけたのだけれど、友人から帰ってきた言葉は思いがけないものだった。

「山ちゃんが死んだ」

一瞬なにを言ってるのかわからかったが、その表情から冗談をいってないことだけはすぐに理解できた。

そのまま、担任のところへ走っていってたずねると「あぁ、可哀想にな」とだけつぶやいた。
後でわかったことだが、山ちゃんは大学受験に車で向かう途中、前方の大型トラックの荷台から落ちてきた木材がフロントガラスを突き破って頭に直撃したのだという。
即死だったらしい。

あまりの突然の出来事に僕は混乱し、いろんな考えが頭のなかをグルグルと巡りめぐった。
「ネクロスの要塞をまだ返してもらってないじゃないか」
「昨日、渡り廊下ですれ違ったばかりだろ、いつもの合図したやん、目があって笑ってたやん」
授業開始のベルがなっても教室には行かず校内を彷徨った。
溢れ出る涙を見られないようにと、水飲み場で顔を洗っていたとき、生徒から怖がられている体育教師が注意しようと話しかけてきた。
が、僕の泣きじゃくった顔を見て、先生は何もいわずに去っていった。
先生なりの優しさだったのだろうが、そのいつもと違う態度で、山ちゃんが死んだという現実を思い知らされた。

休み時間に友人たちとあっても、みんなまだ信じられない様子でみんな何も言わずにただ一緒にいた。

午後からは美術の授業。
この授業はクラス合同で、偶然に好きだった同級生と隣の席になる。それが楽しみで、いつもは必ず出席していたのだけどこの日だけはやはり憂鬱な気分だった。
それでも少し気持ちも落ち着いてきた僕はその授業からは出席することにした。

何気ないように彼女に話しかけようとしたのだけど、言葉が思い付かず気がついたときには、もう涙が流れていた。
その子に泣き顔を見られるのが嫌で、美術室を飛び出した僕は自転車を走らせて10分ほどの自宅まで帰った。

その日はとてもいい天気で隣の人が洗濯物をほしながら「あら、どうしたの?」と声をかけてくる。
僕は無理に笑顔を作りながら、なにげなく「ちょっと忘れ物」と言って家に入った。

清々しいほどの青空と隣のおばさんの能天気さと、今の自分の暗い気持ちのギャップが何故か可笑しかった。

僕は部屋においてあったアルバムから山ちゃんの写真を取り出すと、すぐに学校へともどった。
授業はまだ続いていた。先生はやはりなにも言わなかった。

ちょうど卒業製作の製作を始める時期で、授業内容はそれぞれテーマを決めて一枚の絵にするといった内容だったと思う。僕は書きかけだったキャンパスの下書きを全部消すと、写真から山ちゃんの顔を描き写し始めた。

子供の頃から落書きは好きだったけれど、本気で絵描きを目指していたわけではなかったし、真面目に美術の勉強をしたこともないので、つたない画力ではあったが必死に描き続けた。
あんなに必死になって絵を描いたのは初めてだった。

翌日、僕は電車で遠方のゲームショップへ出掛け、何ヵ月も前に予約をしたスーファミを手にいれた。その帰り道、同じ席に乗り合わせたおじさんたちが話をしているのが聞こえた。

どうやら山ちゃんのことを話しているらしい。話の内容からアルバイトをしていた寿司屋のお客さんのようだった。
真面目に働く少年だったとか、大学目指していたのに可哀想にな、とかそんな内容だった。

その日は遊び部屋には友人達が来なくて、一人でスーファミを遊んだ。
でもスーパーマリオワールドを遊んでも、エフゼロを遊んでも、喜びも楽しみも感じなかった。

そうなんだ、僕はスーパーファミコンが欲しかったわけじゃない、みんなでゲームを遊びたかったんだ。
その時、自分のやりたい事がはっきりとわかった。

「ゲームをつくりたい」

わかったというよりも、そうしなければいけないと思ったという方が正しいだろうか。
気の会う友人が集まって時には本気に、時には笑い転げながら遊ぶ、そんなゲームが作りたい。

それから本気でゲーム会社に就職する方法を考え続けた。
やりたいことがあったはずなのに突然の事故でそのすべてを失った山ちゃんと、目標も持たずに生きてきた僕。

思い返してもても、山ちゃんが将来やりたかった事の話を聞いた記憶がない。僕は将来の話をする相手にふさわしくなかったのかもしれない。

数日後に葬儀が行われた。
友人たちも少し落ち着いた様子で、山ちゃんが気に入りそうな冗談を言い合った。
「たぶん、アルデバランみたいに他のキャラに混じって復活すんだよ」
「そうだ、王大人なら治せるんじゃね?」
「俺、ドラゴンレーダー作るわ」

その日はなにか現実味がない感じですぎていった。
最後にみた彼の顔はキレイだった。

彼のお墓は町全体を見下ろせる小高い丘に作られた。
僕は卒業製作を描き上げると、空いたスペースに彼へのメッセージを書き込んだ。

そして僕はデザインの専門学校へと進学した。

4.その名は仁義ストーム

2012年2月23日木曜日

2.僕は卒業アルバムに写真が載っていない


ゲームが一番上手くて金持ちの「いけやん」
暗い性格の癖にギャグがめちゃくちゃ面白い「マコチ」
スポーツマンなのにオタクの「トオル」
ムードメーカーで周りに気が利く「山ちゃん」
変態の「シュウヘイ」

僕らはいつも一緒だった。

近くの工場へ忍び込んで「キャッツアイ」カードを置いてきたり、車の助手席からDIO風に飛び降りて見たり、落ちてくる葉っぱを片手で何枚取れるか競ったりと、いつもくだらない遊びばかり。

夏休みにも男同士で集まって泊まりがけで海水浴にいき、休日も電車で京都市内まで出掛けてゲーセン巡り、好きな子はそれぞれいたけれど、恋愛に奥手だった僕らはクリスマスも男友達で鍋を囲んだ。

毎日のようにゲーム好きの友達と一緒にいて、初めの頃はこれから先どんなゲームが出てくるのかって話をしていたのが、だんだんと「みんなでゲーム作ろうぜ」等といかにも高校生らしい話題が出るようになっていく。

友達と企画していたのはこんな内容。
世界で一番強い奴を決める格闘アクション。
登場人物は自分達。
ゲーム内容はまったくなんの工夫もないファイティングストリートのパクリ企画。
詳細はよくわからないが、タイトルだけは決まってて「激ファイト」
タイトルもファイナルファイトのパクリだ。

そんなに簡単にゲームが作れる環境があるわけでもないので、実際に作れないのはみんなわかっていたけれど、事あるごとに話を持ち出しては、自分で考えた必殺技を披露して見せては笑い転げる。

高校2年になると就職希望者と進学希望者でクラスが別れる。僕が選んだ就職希望者のクラスでは、成績が少しくらい悪くても、少々欠席が多くても特に怒られるようなこともなかった。

仲の良かった友人ともクラスが変わり、好きな女子も違うクラスだったので、学校へ何の為に通ってるのか、だんだんわからなくなって、いつも放課後が待ち通しかった。

僕がいたのはいわゆる落ちこぼれクラスってやつだろうか。問題児が多く、先生も熱心ではなかった。

そんな風だったので朝にはちゃんと家を出て、登校するのだけど、ゲームソフトやゲーム雑誌の発売日には午後からサボるのが日常となっていった。
体育祭や文化祭の日には、親が出掛けている友人の家にいってゲームをしていた。
だから、学校行事に写っている写真も少なかった。

その頃から一緒に遊ぶ時間が減っていた友達がいた。それは山ちゃんだった。就職組で先の事など深く考えもせずに、毎日ひたすらゲームに浸っていた僕とは違い、彼は進学組で大学受験のためにちゃんと勉強をしていたのだ。

山ちゃんは、友人達の中でも特に長いつきあいで、残っている記憶で一番古いのは小学一年生と時。

小学生の頃、僕は背が低くて背の順で並ぶといつも一番前になった。山ちゃんと僕は違うクラスだったが、彼も背が低かったのでクラス合同の授業ではいつも隣同士になった。

だから運動会では同じ列で一緒に走ることが多かった。
勝敗の結果は覚えていないが、僕は山ちゃんにライバル心を抱いていて、子供心に負けたくないなと思い何かと競いあった。

小学校の頃はクラスが違うこともあり、それほど親しくはなかったのだけど、中学生になってから漫画やアニメの趣味があうことがわかり、PCエンジンを持っていたことがきっかけでよく一緒に遊ぶようになっていった。

高校3年になり、受験勉強の合間にアルバイトもこなす山ちゃんと、いつまでも友達とつるんで遊び呆けている僕。差がありすぎて小学校の頃に抱いたライバル心も完全に消え失せていた。

就職を決める時期がやってきても、僕は危機感のない状態で、いくつかの求人書類の中に近くの電気屋チェーンの入社面接があったので「これでいいかな」程度に考えていた。

夏休みになりスーパーファミコンの発売が近づいてくるとゲーム熱はさらに加速し、僕はさらにゲームの世界に没頭した。

高校3年の二学期、山ちゃんと僕は学校で顔を会わす程度になっていたが、廊下ですれ違う時には、必ずお互い手をあげてパーンと叩きあった。それがいつもの二人の挨拶だった。

3.僕はスーファミが欲しかったわけじゃない。

1.僕はファミコンを買ってもらえなかった。


これまで、何本かの格闘ゲームに携わらせてもらったのですが、その中でも思い出深いタイトルの開発の話と、私がゲーム業界に入るきっかけをくれた友人達の話です。
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80年代、小学生男子の話題と言えばファミコン一色。
ファミコンを買ってもらえなかった僕は、集まってゲームの話をしている同級生が羨ましくてしょうがなかった。

毎月15日に買ってもらえるコロコロコミックのゲームの記事を何度も何度も読み返して、新作ゲーム情報や攻略法だけはすごく詳しい、でも遊んだことはない。そんな小学校時代を過ごす。

中学生になってもファミコンは買ってもらえなくて、たまに町外れのボーリング場のゲームコーナーへ行って、少ない小遣いをアーケードゲームにつぎ込んだ。置いてあるゲームは古い物だったけれど、それでも夢中になった。

たまには週末に電車で30分くらいかけてデパートの屋上のゲームセンターへと足を運んだ。
そこにはワンダーモモに妖怪道中記、ストリートファイターといったゲームが続々と入って来て、子供一人で行ける場所では唯一新作ゲームが遊べる特別な場所だった。
特にRtypeというシューティングゲームにはまりずいぶんと遊び込んだ。

とはいえ、僕にとってゲームは身近にない特別な存在だったので、どちらかと言えば漫画やアニメにのめり込んでいく。
ただ、あの頃は、ビーバップハイスクールを読んでる連中が、聖闘士星矢のアニメを見てる連中をいじめるという構図があって、アニメ好きと言うのはあまり自慢できる趣味ではなかった。
ビーバップ勢は、本気で鼻に鉛筆つっこんでくるような連中だったからマジで怖かった。
そういうわけで、中学の時はアニメ好きをあまり表に出さず、テニス部に入りそれなりに健全な学校生活を過ごした。

そして、高校一年生。
ちょっとお金持ちの友人の家で遊ばせてもらったPCエンジンのRTypeに衝撃を受け、貯めていた小遣いを持ってその日の内に買いに走った。

ゲーム機を手に入れてからの日々はもうゲーム三昧。
部活もやらず、自由な時間は全部ゲームをしていたか、漫画アニメを見ていたかのどちらか。

同じくPCエンジンを持っている同級生とゲームの貸し借りをするうちに、同じ趣味の友人が集まるようになる。
僕の家の離れ小屋が遊び部屋に解放してあって、持ち寄ったゲームや漫画がずらり。僕がいようがいまいがおかまいなしに友人達がやってきて毎日かかさずゲーム漫画ゲーム。

PCエンジンは初期にソフトが少なくて、なんでもいいからゲームが欲しいからと買ってしまった遊々人生から始まり皆でとにかく集めまくった。特に対戦や多人数でやるゲームが多くて、パワーテニス、ファイアープロレスリング、桃鉄等々、はまったタイトルをあげるときりがない。

集まると必ず遊んだのがモトローダー。このゲーム、最初のステージでほぼその後の結果が決まってしまうのだが、みんなノーミスでクリアしてしまうので、ゴール直前でわざとスピードを落として、画面端からワープするテクニックで逆転を狙ったりととにかく熱い。

ディープブルー海底神話というシューティングは、敵が突進しかして来ないゲームで、クリア不可能ではないかと思う難易度。みんなクソゲーだとわかっていたが、その理不尽な難易度が逆に楽しくて、どのステージまで行けるかを競いあった。とにかくどんなゲームだろうが、遊び方を見つけてとことん遊び倒した。

PCエンジンとメガドライブは友達とソフトの持ち寄りをしていたので初期のソフトはすべてプレイしていたと思う。ROMROMやメガCDも当然のように持っていたし、
修学旅行にさえPCエンジンを持ち込んだ。

家でゲームに遊び疲れると、息抜きにボーリング場のゲームコーナーへ遊びに行く。
当時はゴールデンアックスやファイナルファイトといったベルトアクションが流行っていて、ソドムをはめ殺したりデスアダーをはめ殺したりして誰が一番先に1コインでクリアするかをやはり競いあう。

子供の頃、ファミコンを買ってもらえなかった反動だろうか、
僕はとり憑かれたようにゲームにのめり込んでいった。

2.僕は卒業アルバムに写真が載っていない

2012年2月17日金曜日

自己紹介と挨拶

校長です。
このブログではEXAMUを設立するまでの出来事をつらつらと書き連ねようと思っています。

思えば、学生の頃、ただのゲーム好きのいわゆるオタクでした。どちらかといえば成績は残念な方で、運動の方は団体競技がとにかく苦手で体育の授業が嫌いだった。
他に特に目立った才能もなく、強い意思や志があるわけでもなかった。

そんな私が、憧れていたゲーム開発職について、これまで干されずに仕事を続けてくることが出来た。

たった一つ取り柄があるとすれば運が良いことだろうか。

最初に入った会社が株式会社SNK。
そう、あの龍虎の拳や餓狼伝説を生み出したSNK。
あの頃は、かなりの人数を新卒採用していて、なんとか入社することが出来た。

配属されたチームが作っていたタイトルが「サムライスピリッツ」だったのも本当に幸運でした。当時はデバッグのみでしたが、世界中で遊ばれるゲームの開発現場というものを肌で感じることが出来た。

SNKを3年半で退社した後も
オリジナルコンシューマタイトル
サムスピ続編の製作総指揮
大好きな漫画のゲーム企画
アーケード用完全新作格闘ゲーム
オリジナルハードの開発
世界的人気キャラクターのゲーム化
と、それはもう宝くじに当たったかのような確率で、憧れていた仕事に運良くありつけました。

なかでも、とりわけ思い入れが強かった対戦格闘は、長年「オリジナルタイトルが作りたい」と思っていましたが、市場がどんどん縮小しているので「所詮無理だろう」と半ば諦めていたところ、ひょんな事から「アルカナハート」と言うタイトルを作るチャンスをもらえた、しかもアーケードで。

ゲーム開発への関わり方もいろいろありました。
企業の一社員から始まり、フリー、個人事業主を経て個人会社の立ち上げ、そしてEXAMU設立へ。
仕事内容もドッターから始まり開発費管理まで、運良くありつけた仕事はなんでもやってきた。

今ではEXAMUの取締役なんていう大層な肩書きまでもらってる。
この20年でそれはもう、十分すぎるくらいやりたかったゲーム開発の仕事をさせてもらえた。

そして徐々に私は開発の仕事からは離れつつあります。
それは、次にやるべき課題がある事と、開発現場には私より優秀なスタッフがいるので自分自身が開発の現場にいる必要はもうないんじゃないかと思い始めたから。

そこで、これまでゲーム開発者として経験した現場での事や、ボツ企画、自分が考えて来た事等を一度、まとめてみようかと思った訳です。

別に裏話や暴露話をするつもりはありませんが、出来事には人それぞれの視点や考え方があるわけで、あくまで私の視点から見た出来事とその感想だと思ってください。

と、長くなってしまいましたが挨拶はこのくらいで終わりにします。

今後のブログ更新も、チラ裏に書いて大事にしまっとけよって内容になると思いますが、ゆっくり続けて行こかなって思っています。